The Epilogue of the Master Narrative.

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いつまでもいつまでも「頑張ればやれる」などと思ったまま大人になるのは、本当に幸せなことなのか?
言論っていうのは元来そういうものじゃない。ほんとうは独白なんですよ、言論は。他人の独り言であって、たんなる独り言に対してわざわざ文句を言ってくるんじゃないってことです(笑)。はっきり言ってしまえば、そういうことなんだけど、ウェブの人の文章は、読んでみるとどうも独り言じゃないんだな。反論を予測しながら書いているとしか思えない。
(『考える人』44ページ)
ののしりあうだけじゃ何も生まれないけど、善悪の議論の前に、好き嫌いを主張するのは大事なことだよね。
ブログやTwitterに限らず、もっと自分の主張をしあえばいいと思うんですけどね。日本にはそういう(ちゃんと自分の立ち位置を明確にした上での)ポジショントークが少ないと思うので。
時代の流れに乗ることと、人と違うことをすること、その二つをどう組み合わせるかが人生のアートだ。
バンコクの子供たちは別に屈託なく笑ったりしてないな。無表情に車の窓を拭いて金をせびり、花を買えと人をつつく。機会平等とは諦めなくていいってこと

国内の問題にそっぽを向いて、「移民入れましょう」なんて人たちの本音は、あれは「能力を生むコストの外注」であって、「教育に必要な無駄」、能力を持った人を生むシステムを、今から日本に再構築することを、「上」の人たちは、もう無理だと、日本をどこかで見限っているからなんだと思う。

いろいろ詰んでる。

光は全ての色を含んで未分化。無色の混沌。それはそれのみとして、分けられずにあるもの。切り分けられていない、混然とした、美しく大きな力。それが人の心の中にある。

で、二人でいれば混然としていられるのだが、人目にさらされるとそうは行かない。二人っていうくらい、微妙な関係はない。それは他の誰かが、「あいつこう言ってたよ。」というだけで、余裕でグラつく関係じゃないかと思う。そして二人でいる人達にすかさず貼られるレッテル「仲が悪い」。オーケー。世の中のすべての二人組を代表して言っておこう。「お前らに言われる筋合いはない。」以上。

二人、というのは微妙である。男同士の場合(女同士であったことがないから判らない)、あまり話が通じてしまうというのも考え物で、微妙な気恥ずかしさみたいなものが発生したりする。本当は親しい友達とは、大勢で居る時には意外に話さなかったりして、他人を反射して話をしたりして、二人でいると突然変に盛り上がったりして、そういうことは結構面白い。そういう友達が何人かいます。

二人でいれば、そのまったくくだらないナイフは、混然として美しい世界をどんどん切ってよこす。そして切り取られた世界は君の皿の上で、干からびて死んでしまって、勘定書きの上に、その名前だけが残るのだ。「優雅さ一つ。」そんな風に記されていいものは、この世の中には一つもない。カレーが、ゆでたニンジンと、いためたタマネギと、ご飯と、といった具合に出されるのと同じだ。それには何の意味もない。
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